2005年02月28日

「哀愁のパパオ」


俺が元気になったかと思うと、まさか、おまえの調子が悪くなるとは。
無理をしたのか?
無理をしていたのか?
なぜ、もっと早く言ってくれなかったのか?
パパオ。
おまえが戻ってくるまで、俺は、どうすればいいんだ。

ひとり途方にくれちまったよ。

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■石畳の街並みを駆るパパオ■

水色のアクアグレーを身にまとったおまえとはじめてあったとき、俺の心はときめいた。
レトロチックなデザイン。
三角窓に外側に出したドアヒンジ。
丸く3個ならんだテールレンズ。
非集中ドアロック。
純正レトロコンポ
インテリアは、いたってシンプル。
そんなかっざりっけの無いおまえに、まいっちまったよ。

街を走れば、ミニとの競争。
エンストなんか、当たり前。
それでも、いつだって、おまえの勝ちだ。

冬、寒風が吹きすさぶ中を駆れば、すきまから自然の風を運んでくれる。
冷房要らずだ。
暖房をつければ、冷気が車内をめぐる。
曇り止めには、最高だ。

夏、三角窓から入り込む、さわやかな風。
冷房をつければ、足元からの暖気。
冷え性には、最高だぜ。

なんといっても、おまえがもっとも輝くのは、春、そして、秋だ。
若葉が茂るころ、やわらかな陽射しをあび、さっそうと草原を駆け巡るおまえの姿。
駿馬。
秋、残照が街を照らす中、落ち葉を風に揺らしながら走りぬけるおまえの姿。
驢馬。
石畳の街中を走れば、誰もが振り返る、おまえの美しさに。
いつでも、どんなときでも、おまえと過ごしていた。

それがどうしちまったんだい。
ここのところ、咳き込むことが多いじゃないか。
肺が悪いのか?
動悸が激しそうじゃないか。

それに、最近、弱気なおまえ。
信号待ちで、疲れ果てたように、ストップしてしまうおまえ。
低速で走っていると、急に黙り込んでしまうおまえ。

どうしちまったんだよ。

■「一週間の安静ですね」と彼は語った■

おまえが嫌いになったわけじゃない。
しょうがないんだ。
おまえと一緒にいきたくても、おまえを止めてやる場所が無いんだ。
だから、仕方が無く、バイシクル・クイーンに頼ざるを得なかったんだ。
おまえを無視していたわけじゃない。
それに、俺だって、いつも、おまえと一緒にいるわけにもいかなくなったんだ。
分かってくれ。

整備屋の工場長のNさんが、心配そうにしてたよ。
「バッテリーじゃないね。エンジンかな?」
それでいて、励ましてもくれたよ。
「大事にされているから、大丈夫ですよ。ちょっと安静にしていれば。それに、パパオラーの人は、みんな平気で10万キロクラスのパパオを乗り回しているから。彼は、まだ若いし」

俺、Nさんの手を取って、「頼みます」って何度も頭を下げて、下げてるうちに涙がこぼれてきてしまって。
だって、俺の傍らで、おまえがしょんぼりとしているもんだから……。

一人、帰り道、おまえのことばかり考えていたよ。
「都会の雑踏なんかに、おまえを引き回さなければよかった。もっと空気のきれいなところへ連れて行けばよかった」って。
歩きながら、なんだか自分がなさけなくなってな。

でも、俺、信じているから。
おまえが、元気になって戻ってくることを。

世間じゃ、おまえのことを「肺病病み」とさげすみ、避けるかもしれないが、俺だけは、おまえのことを思いつづけ、大切にするからな。

だから、ゆっくり養生するんだぞ。
おまえが退院するまで、俺は俺でなんとかする。

パパオ。
もうすぐ、おまえの好きな季節だ。
春になったら、奥多摩にいこう。
渓谷沿いに走らせて、迎える若草の匂いを車窓に送ろう。

きっと、行けるよ。
必ず、行けるよ。

だから、それまでは、ゆっくり休めよ。

な、パパオ。
posted by Jhon Done at 20:12| イドログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月27日

「リチャードも『愛』だろうなぁ」


さぁ、いよいよわが世の春だ。
辛く長かった冬を尻目に、わがイドウ家の太陽のもと、今や正に春らんまん。
一面の黒い雲も大海の底深く閉じ込められて、今はあとかたもない。
勝利の花輪は頭上に輝き、重苦しい進軍の足なみは軽やかな踊りにとって替わった。
(『リチャード三世』第一場より、一部抜粋、脚色)

■ヴァン・モリソン『スウィート・シング』にのせて■

俺のシュガー・ベイビーは、敬虔なクリスチャンである。
彼女のためだったら、眠くても、車の運転ぐらい、どうってこともない。
すなわち、「愛」だよ、「愛」。

「敬虔」というと本人は、謙遜するだろうが、俺からみると、すばらしい人なのだ。
いまさら、「愛」だ「恋」だなんて言うほどのヤボではない、のろけるつもりもない。
長いつきあいだ。
ただ、彼女は、人格的にも人間的にも「できている」人なのだ。
ある意味、この人がいなかったら、俺は、世間のヘリからすべり落ちていただろう。

彼女は、宗教にはまっているというわけではない。
日曜日には、礼拝を守るが、だからといって、何が何でも教会に行かなければならない、という考えの持ち主でもない。
「いつもイエス様は、心の中にいるわ」と、'マザー・テレサ'のような人なのだ。

小さな動物に、自然界で厳しい生を営む植物に心を配り、愛する、‘ブラザー・サン・シスター・ムーン’のような人でもある。
(我が家の愛猫が、狩りの本能に目覚め、ねずみをとってきても、ねずみのために墓をつくるような人なのだ)。

話はそれるが、この愛猫も、できた猫なのだ。
朝になると、俺が寝ているベッドの上を駆けずり回り、俺を起こしてくれる。
ある意味、この猫がいなければ、俺は、遅刻の毎日だろう。


■病める時も、健やかなる時も■

俺は、昨年の春から夏にかけて、病を患った。
病後の回復もおもわしくなかった。
何も病のときだけではないが、この間、ことさらに彼女に支えられた。
彼女の献身に、祈りに。

彼女は、何も求めなかった。
ただ、ひとつのことだけを除いて。
「元気になられたら、一度で良いですから、教会に」と。

彼女との約束を果たしたとき、彼女に「毎週は無理だが、ひと月にいっぺん程度なら、いっしょに教会にいこう」と、俺は約束してしまったのだ。
そのとき、笑顔をみせながら「あれから牧師様が、『表情が明るくなったね』とおっしゃってくださいまして。私、本当にうれしゅうございます。なにか、私たちを覆っていた『黒い雲』が取り除かれたような思いですわ」と、彼女が「リチャード3世」の冒頭句を持ち出したのは驚いた。
俺としては、彼女は、‘ノーマン・ロックウェル'のような人だと思っていたのだが。

そして、その約束の日が、今日だった。

朝、曜日の感覚の無い愛猫によって、案の定、起こされた。
目覚ましの設定を「停止」しておくのを忘れた。クソ猫め。

眠り足りなく、シュガー・ベイビーに「申し訳ないが、どうも身体が……(なに、ねむいだけなのだが)」と。
彼女は、一瞬、悲しげな顔をするが、「身体を休めるときには、休むことが大切ですわ」と、約束を果たさぬ俺を責めるでもなく、一人、教会に行くという。

そこで問題があった。

礼拝の時間が迫っていたということもあり、車で行くという彼女。
それは良いのだが、ここのところ車のエンジンの調子が悪い。
低速で走っていると、エンストを起こしやすい。
運転技術がカマ堀り2回の俺に比べて、彼女はおぼつかない。
近く、整備屋に持っていく予定でもあり、彼女一人に運転させえるのは心配だった。

そこで俺は、「車はやめたほうが良い。タクシーでいいから、それでいきなさい」と告げると、「タクシーだなんて、もったいのうございます。歩いていきます」と彼女。

彼女との約束を裏切った手前もあるが、そこは、シュガー・ベイビーでもある。
俺は、ボウボウ髪にジャージの風体もかえりみず、ボーボージャケットを羽織ると、車庫から愛車を出した。
そう、彼女のために、教会までの道のりを車で送るために。
エンストと闘いながら、車を駆る、日曜、午前10時の俺、だった。

教会の前で、彼女を降ろすと、「午後には起きて仕事をしているから、帰りに難儀したら連絡するように、車で迎えに来るから」と告げて、颯爽と帰った。
車中、「ん? 教会まで来たのだったら、いっしょに礼拝に出席すればよかったのかな?」と、一瞬、思った。
主よ、許したまえ。

■さぁ、いよいよ、原稿書きの季節がやってきた■

帰路、ホカ弁屋に寄って帰る。
一人で食うホカ弁は、最高だ。
ドクターペッパーも買った。
外に出たおかげで、目も覚めた。
これで、仕事への準備が整ったというものだ。

さぁ、引き延ばしにしてきた、原稿に着手するときが、ついに来た。
辛く長かった「原稿かかなくちゃ、あかんよな」の呪縛から解き放たれるのだ。

だが、1時間が過ぎ、2時間が過ぎていく。
時が、どんどん過ぎていく。

書けない。
書けない理由を上げることもできないくらいの、書けない、のである。
「書く気力」バロメータは、MINのまま。
それで、弁当を食った。
すると、眠気が襲ってきた。
ベッドが俺を呼んでいた。

愛猫も眠る春、2月。

いったい、何時間、眠りについていたのだろうか。
部屋の中に灯りが点っていた。
目の前には、シュガー・ベイビー。
「食事がまだだと思ったので、惣菜を買ってきました」と。
……愛があるならば、無下にはできない。

くちくなりすぎた腹をかかえ、俺は、パソコンに向かい、書いている。
そう、この駄文を。
ちっこい字で表示される、この長い、いつ終わるとも知れぬ、この稿を。

肝心の原稿は、まだ、書き始めてもいない。

人生とは、人間の思わく通りに事が進まぬことでもある。
グロースター公リチャードにも、思わぬ誤算があったように。

そして……「愛」、それは、時として、結末をも変える。
posted by Jhon Done at 21:03| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月26日

「天使の歌声、午前3時のナイチンゲール」


毎年、この時期になると、オラの住む村に旅回りの一座がやってくる。

‘旅芝居’といって、バカにしちゃいけねぇ。

女座長が率いる一座だが、毎年、趣向を凝らして、オラたちを喜ばしてくれるだ。

今年は、「かけおち」(つかこうへい氏作)、「紙風船」(岸田國士氏作)、「修善寺物語」(岡本綺堂氏作)の3部作と、芝居通をもうならせる演目で、村人こぞりて、芝居小屋に足を運んだだよ。

作品ちゅうと、都会さではやっているつか作に、岸田先生の新劇、西欧近代劇へのアンチテーゼ、ポスト歌舞伎イズム、岡本作の史劇とくりゃ、この3作で日本の近代演劇の歴史が分かるってなもんだ。

それにな、都会で言う「ア・レンジ」つうのか、それぞれの作品に、黙劇有り、伎楽有り、そうそう、舞踏にオペレッタと様々な演出が施されておってな、春まだ遠い辺境の地、ネリウマに、一大ページェントが繰り広げられたってちゅうもんや。

ありがたや、ありがたや。長生きはするもんだで。

ま、おらは、つか先生の作品さぁ一番に楽しみにしておったが、なんだで、都会でスターだっちゅう役者が、‘康夫’を演じていたんだが、これがまた若いのに、なかなかやりおる。
‘セツ子’とのセリフの掛け合いが絶妙で、おらは腹がよじれんばかりに笑ったぞなもし。
セツ子役の女優はんも、ファラ・フォーセットを彷彿させるほどの美形の女形で、おらは見とれることしばしばや。
それにな、トリッキーな役所の男はんも出なはってな、これがまっことメンコクて、おなご衆からは嬌声をあがっておったわな。
いずれにしてもやな、つか作の常軌と狂気、条理と不条理の世界観を描いていておもろかったぞなもしり。

一変して、岸田センセの作品は、静劇やったな。夫婦の機微を描きながら、底流に大正デモクラシーを色濃く反映させ、近代日本のあり方を問うていた。

わしらもようけぇ、考えさせられたわ。
さっそく家に帰ったら、かぁちゃんに「シュガー・ベイビー」と呼ぶとするわな。

でもんだで、演者はんの演技は好演の極みや。
セリフの間や微妙な仕草に、男と女の心理の綾を浮かび上がらし、清新さを浮き彫りにしていたぞ。
難しい役所だけに、たいそう苦労なさったろうに。
にもかかわらず、あげん演るなんて、さっすが「役者」つうもんや。
それに、役者冥利の「役」やな。

ほんま、おらが、市井の片隅でひっそりと暮らす病み上がりの駄文家じゃなければ、やってみたかったぞなもし。

そっこと、これが今回の演じ物中の出し物、ロマネスク風「修禅寺物語」。
楽団を仕込み、バーレスクにオペレッタときて、ついでに「オペラ座の怪人」風ペースト仕上げ。

幕開きに、どこぞで聞こえる「鈴の音」の声。
かぼそく、それでいて、哀しげにも軽やかにも聞こえる声の音をたどると、天使の歌声、午前3時のナイチンゲール-――
女座長さんのコロラチュラソプラノ。
小屋中が、シーンとなりはって、あんときは、みな、座長はんの歌声に聞き惚れていたなや。
だけんども、手に持っていた楽器はなんやったんやろ? 一〜二度だけ鳴らしていたが……。

続き、蛇皮線(編集部注=三味線とは違うようだが、詳しいことは知らん蛇)奏者の弾き語り(でいいのか?)にあわせ物語が進行し、途中、なんやかんやあって、役者はんもぎょうさん出おって、踊りもあったんや。

と、まぁ、こういっちゃなんだが、お面づくりのおやっさんが、クライアントから頼まれた仕事の出来が気にくわなくて〆切を延ばしていたんだけんども(つか、分かるよ。原稿が書けない苦しみと同じだよな)。
その間、クライアントは、娘っ子(妹だったっけかな)の一人と恋仲になっちまったと、で、お面も手に入れたと(ま、ここら辺は複雑なので、省略だぎゃな。話の重要どころでもあるんだが)。

一方、姉貴が玉の輿に乗った妹が気にくわなくて、なんやかんやと因縁を(付けていたかどうか、雅言葉でよく分からなかったが、なんかそんな感じだろう)。

でだ、橋の上で、クライアント(あえてAと称する。本当は、源頼家)と妹が逢い引きしていたら、ライバル会社のクライアントBがAを殺しちまったところ、悲嘆にくれた妹が、Aが手にしていたお面を家さにもって帰って、泣き濡れていたら(ん? この時点で、妹も殺されたんだっけかな? ま、いいや)、おやっさんがその面を取って、完全原稿にして、〆切に間に合わせて、無事新聞が出来ました、めでたし、めでたし、ってな悲喜劇な話なんだよ!

とにかく、そこらへんで、踊りもあって、感動的な場面が展開されていたというわけだ。

ちゅうことで、後半、筆が乱れおったが、役者連の見事な演じっぷりに効果を生かした舞台は、感嘆の一言だべさ。

ほんま、ええもん見させてもらったわい。

来年も、楽しみじゃ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
俺はこの一座に借りがあり(金銭じゃない)、さらに言えば、負い目がある。
一座の団員さんに、無用な用を作らせてしまったので。
が、もしてして……と思うのだが、もらったのは俺?
ということは口が裂けてもいえないので、心にしまっておこう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ということで、まだ、まだ、続くのであった。

公演を見終わると、急ぎ、家に戻った。

この日、家内方面の親戚縁者を招き、ささやかな宴を料理屋で催した。

療養中、なんやかんやと心配をかけたことから、せめてものお返しにと。
快気祝いをもらった手前、何かしないとまずいだろう、と市井の人、俺は、そう考えたのだ。

ま、総勢、6人程度の小さな食事会だ。
どうせ、たかがしれているだろう、と思ったら、あにはからずんば虎児を得ず。

飲むや食うやの大散在。
とにかく、酒を飲みまくる。

主催は俺でも、ある意味、主賓は俺でもある。
主賓の俺が、病後、「禁酒の誓い」をたてているというのに。

「おかげさまで」「ご心配をおかけしました」と親戚チックな会話を交わしながら、ヘラヘラと酒をつぐ俺。
もう、世事にどっぷりつかって、ダスゲマイネだよ、ほんと。

宴が終わった後、どっと疲れが出た。
家に帰ると、「お疲れさまでした。みんな喜んでいたわ」
とシュガー・ベイビー。
俺も、一言。
「うむ、それはよかった」
と。

家長は、大変だ。
と、急に、世の中の人と同じような気分になった。

俺も、堕落したな。

窓の外を見ると−−
月は青し、春、まだ遠く、胡蝶蘭(字余り)
posted by Jhon Done at 23:00| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月25日

「一日の労苦は、一日の愛」

誰彼なく、あいさつをくれる。
違う部署の話しすら交わしたこともない人間からも。
彼らにしてみれば、当たり前、なのかもしれないが。

他愛が無い話だ。
たかが、あいさつ程度。
それでも、彼にとっては、涙が出そうな朝だった。

いろいろな人間がいる。いろいろな人間が働いている。
文字通り、「いろいろ」だ。
「コミュニティ」だの「連帯」だの、「博愛」「共生」「共存」「協働」――そんな言葉の響きすら空虚に思えてしまうくらいの。

彼らの何気ない言葉に、心が震える。

一人ひとりがたどってきた道のり、負ってきた重荷。
詳しくは、知ることも無い。
けれども、彼らに突きつけられた「今」を見るならば。

「どうだい、調子は?」「疲れが出たんだろう」「無理をするなよ」
言葉をくれる一人ひとりに、彼は頭を下げる。

彼は昨日、仕事を休んだ。
身体が鉛のように重く、ベッドに沈みきっていた。
起き上がることすら大儀に覚え。

兆候は、一昨日からあった。
そのときは、自身を叱咤し、身を起こして、勤めに向かったが。

「気」を張ってきた反動か、疲れがいっぺんに出たようだ。
時を忘れ、深い眠りにさまよい続けた。

目を覚ますと、一面の雪化粧。
昨日と今日の景色を変えていた。

どこにでもありそうな、日常の断片。

けれども、多くの不自由に縛られながら生きている彼ら。

何気ない言葉が、彼の肩を過ぎる。

飾ることも無い、自然体のままに発せられた言葉。

彼は、少しだけ、涙をこぼしそうになった。

それが、今朝のことだった。

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まぁ、つまりは「気」を張ってがんばってきたが、疲れちまって会社を休んだまで。
「がんばてきたが」と書いたが、デスクワーク中心の、たいした仕事もしていないのに、ホンと、疲れて起き上がることができなかった。

比較的、「夜に寝て、朝に起きて」と、俺の人生の中でまともな生活スタイルを貫いてきたが、半年以上、社会生活とは無縁だっただけに、「疲れ」が噴出したのだろう。

「無理がたたったのかな?」
と、シュガー・ベイビーに言ったら、「休日に出歩いたり、夜更かしが過ぎたのよ」だと。

「愛」だよなぁ、「愛」。
posted by Jhon Done at 20:22| イドログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月23日

「箴言の書」


態度が横柄で、生意気で、頑固を通り越して偏屈で、都合が悪くなると、軽く咳なんぞして病み上がりを強調するこの俺をやとってくださる会社まで、地下を走る路面電車で通っているが、駅までは、自転車を使っている。

本来ならば、歩くことが一番なのだが、そんなかったるいことはしない。
かといって車で通うほど、堕落もしていない。
そこで、間を取って、自転車を使っているのだが、なにせ山岳地帯に住む俺にとって、駅までにいくつか越えなければならない峠(坂)がある。

初めて出社したその朝は、坂を上る以前に、数キロ(実測10メートル)にもわたる峠越えをあきらめ、自転車から降り押して上った。

賢明な措置だった。

峠に到達すると、茶屋(そんなもんがあるわけがない)で一服し、おもむろに自転車をこぎ始める。が、それもものの30秒。
ももが筋肉痛を起こし、ひざがあがらず、ペダルがこげない。
それこそ、時速数キロの世界。
朝の通勤を急ぐ村人たちに、なぜか自転車乗りの俺が、ぬかされていくという始末だった。

それが、今では、峠の半分まで、自転車で上りきることができるようになった。
来月にはきっと、峠を一気に上りきることができるだろう。
「人間力」とでも言うのだろうか、人間とは偉大だ(意味が違うが、別にかまわない)。

しかし、今日の主題は、このような低俗な話ではない。
なにせ俺は、プログにかこつけて、文学をやっているのだ。
だから、常に高尚でなければならない。

今朝、駅につくと、ケツポケ(都会の者たちが言うところのケツのポケットだ)にマネークリップ(要するに札入れだ)が入っていないことに気づいた。
ジャラ銭を数えると、340円に5円玉1枚、1円玉が2枚。
ま、少なくとも、この日本で使える流通貨幣であることは間違いないのだが、あまりにも心もとない。というよりも心もとなすぎる。

が、なんとかなるだろうと、そのまま、資本主義社会を支える企業戦士もどきへとリゲインする俺だった。
道すがら、「ええと、午前中に、ヤクルトの野菜パックを1個買って、昼に缶コーヒーを買って、帰りの駐輪場代を払って……」と主婦チックな俺だった。

が、昼飯代がない、ことに気がついた。
「これでは、パンの1個も買えない」と。

話が飛ぶが、記事中「が」を連発すると、昔、「がぁがぁ、うるせぇな」と編集長に怒られたものだった。

で、どこまで話が進んだかと読み返すと――。

昼飯代がないことに気づいた俺だったが、昼飯なんぞ、食わなくたって、これまでやってきた身(それで病ったのかもしれないが)。
そんなことでは、頭を悩ませない。
今はむしろ、食いたくも無いが身体のためと、無理に食っている。

それよりも、金がないため珈琲が飲めないことに、愕然とした。
「缶コーヒー1本かよ」
なにか急に、この世界が憂鬱な存在に感じられ、生きていくのが嫌になった。

とここまで書いてきて、これ以上にも話が長くなりそうなので、ここでペンを置く。

なんせ疲れている上に、本来ならば、書かなければならない原稿があるのだ。
ただでさえ、昼間の仕事で疲れているのに、たかが、プログごときで体力を消耗しては。

それも、いつ締め切りなんだかよく分からない原稿を別口でかかえ、「できれば金曜日であって欲しいな。それならば、明日、早起きをして、さらに、木曜の夜に手がければ、脱稿できるだろうなぁ」などと独り勝手に逆算している俺なのだから。

そういえば、今日のクライアントからの電話では、締め切りの件には触れていなかったな。
「もしかして、もう少し、延ばせるのかな」
などと甘い考えが浮かびもするが、それはこの道で生きてきた俺、心で思ったとしても、決して願いはしないし、同じく、可能な限り、こちらから締め切りの話題は振らないことにしている。

とにかく、このプログにかけた労力を少なくとも、少しでもそちらに向けていれば、明日の晩、多少なりとも楽なことには違いなかっただろう。

しかし、明日のことは誰が分かろう。

つまり、今日、ここで言いたかったことは、「明日は、明日の風が吹く」である。

うむ、まっこと箴言である。
posted by Jhon Done at 22:04| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月21日

「書き始める理由」


ボブ・グリーンの著書に『書きつづける理由』という書物があるが、あちらは名だたるコラムニスト。
他方、こちらは、市井の片隅で、ひっそりと暮らす病み上がりの駄文書き屋。
比べることすら、おこがましいが、なに、誰でも、物を書けば、「物書き」。
おかげで、俺の商売は、後塵に食われっぱなしだが。

といったことをつらつらと書き綴るために、稿を起こしたのではない。
サイトを再開し、ほんのツマミ程度の供え物に、「プログ」なるものをと。
ところが、書いては「板」ごと消し、また書いては「板」ごと消すといったことの繰り返しで、今回で3版目(といった呼び名がふさわしいのかどうか)。

つまり、方向、方針が定まらぬまま、書き連ねたが、記事の行間から‘自己顕示欲’が垣間見られ、嫌になって「板」ごと消したまで。
心の奥底で自己を誇ろうとする自身がいやらしくみえ、嫌になったのが本当のところ。

いっそのこと、ありのままに書き連ねてみようと、「書き始める理由」などともっともらしいタイトルをつけて、再開を決め込んだ。
(といっても、ありのままに書くといろいろと問題があるので、ボカシはするが。なんせ、以前、ありのままに書きすぎていたら、面が割れ、いらぬ迷惑をこうむったので)。

といっても、未だ、方向なんぞ、定めてはいないが。

ただ、以前のサイトのように、ブルースを基調にした駄文を中心にしたためたいとの思いがあまりないのも事実。
(なんせ、当時、サナトリウム風日記を書いていたら、本当にサナトリウムに入るとは……)。

ま、病を患ったせいなのか、それとも、知らずのうちに心をいれかえたのか、ノアールなものよりも、健康的で人間礼賛といったようなものへの興味が強い(が、そんなもん、書きはしないだろう)。

俺は、変わったのだ。そう、俺も変わったものだ。
(入院した当時、ベッドの上で、「治してくれたら教会に行きます」「真人間になります」「人には優しくなります」と祈り、数々の悪行を悔い改めもしたが……)。

だから……というわけではないが、日々の戯事をつづっていこうと思った。
日々、感じたことを素直に(ったって、俺のことだから、ストレートに書くわけが無いが)。
感銘した事柄に(なもん、めったに無い)。
自然の営みに、そのものの美しさを(なもんも、感じはしない)。

そう、俺は、生きていることのすばらしさを!

そうだ、ここまで書き連ねて、初めて「書き始める理由」がわかった。

生かされていることのすばらしさ、だ。

この感動を、ただの一語であらわすならば……。

「ただ、そだれけのことさ。なにも、ありゃしねぇよ」。

おそらく、また、「板」ごと消すはめになるだろうが、ボブ・グリーンの言葉を借りるならば、「書きつづける理由」がある限り、俺は書いていくだろう。

おお、格好いい(自己顕示欲を示す直接的な表現には、俺は、なんら抵抗を感じないのであった)。

ということで、プログシリーズ第3版がスタートしたのであった。
posted by Jhon Done at 21:21| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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