2008年08月01日

「マダム・ジョージ」

思えば、それは現実だったのか、それとも、幻想だったのか。
今でも、おぼつかないでいる。

その日、私は、多摩川上水を散策していた。
水引草に風が立ち、静まりかえった林道を。時に、疲れた「心」を癒すために。

小径をさまよい歩き続けていると、どこからともなく、 グレツキの「トランキリッシモ」が、葬送の歌を奏でるかのように、聞こえてきた。
切々としたその歌声は、夕闇の中で高く、そして、低く響いていた。

その調べを頼りに、林道を抜けると、その先には、長い月回を伝えるかのように、蔦のからむ古屋敷が残照に包まれながら、ひっそりとたたずんでいた。

レクイエムに誘われるがまま、私は、その古木戸の「ノブ」に手をかけ、アトリエ内に一歩、足を踏み入れた。
すると、それまで奏でられていた調べが、急に途絶えた。
陰鬱なメロディの後には、送気管から送り出される冷気の重い静寂が館内を支配していた。

館内は薄暗く、中央にはオーク材を使った漆黒の机が、そして、その上に、燭台が一つ置かれていた。
人の気配は、まるで感じられなかった。
私は、マッチを取り出すと、燭台に灯を点した。
胡桃色の炎が、一陣の風に、揺らいだ。

その時だった。
かすかに聞こえてきたのは、太く低い吠え声だった。

「役者は体力よ」
奈落の底から唸るような「怒声」が。

吹きすさぶ風のように響くその声に引きずられるように、磨りガラスとなっていた小部屋に近づくと、一人の女性が黒衣に身をまとっていた。

「黒ミサの儀式が行われているのか」
磨りガラスを通して、室内へと眼をこらすと、小部屋の中央には、幾人かの男女が列をなしていた。

皆一様に、リノリウムの床に視線を落としていたが、その中の一人が、突如、  「ケケケケケケ
ケケケケケ」 と奇声を発すると、部屋中を駆けめぐり始めた。
その奇声が合図かのように、全員が同様に、部屋中をめぐり始めた。

「なにか、魔よけの呪術なのだろうか」
彼らの表情には、ある種の「恍惚」感さえ漂っていた。

先ほどの黒衣をまとった女性が身を椅子に預けると同時に、室内を駆けめぐっていた連中は、ぴたりと動きを止め、その女性の前に跪いた。

おもむろに立ち上がった黒衣の女性は、
「板の上に立ちゃ、『進むも地獄』『戻るも地獄』。頼れるのは、手前一人だよ。だったら、魅せなさいよ。客の心突き刺すぐらいの『気構え』で演んなさいよ」と罵声を浴びせはじめた。

連中の一人が、何か、つぶやいたのだろうか。
そのとき、彼女の手元から、灰皿が宙に浮かんだ。

「『ナマ』言ってんじゃないわよ。芝居は『個』よ。
輝く『個』がぶつかりあったとき、はじめて、良いものができるのよ」
たたみかけるような言葉の砲列。
「閉ざしていた心の扉を開け放ち、板の上に感情をぶちまける。心のひだを揺れるまかせ、人の心を突き通す。その心の柔らかさなのよ」
彼女は、そう言い放ち終えると、くわえていたタバコを、グラスに投げ捨てた。立ち上る紫紺の糸が、流線を描くように、燭光にまとわりつく。

すると、突然、彼女は、磨りガラスからのぞいていた私に、面(おも)を向けた。

 そして、 「ようこそ、マダム・ジョージへ」と。

眼窩の乱光。
断続する狂笑。
やがて咆哮へ。
協奏曲は喧噪の渦へと。

扉は堅く、閉ざされ、闇の肢翼が彼を覆い尽くすかのように。
あたりは、漆黒の狂気に。

……気がつくと私は、古さびた教会の石段に身を横たえていた。
青白い月に照らされながら。

それは現実だったのか、それとも、幻想だったのか。
今だに、おぼつかないでいる。
posted by Jhon Done at 00:00| Comment(0) | ノアール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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