2005年07月23日

芝居めぐり


連日の芝居めぐり。
ここ数日、ヘヴィーな日を過ごし疲れ気味だが、知った顔が多数出るとあって駆けつけた。
骨太の作品とあって、2幕の長物もあきることなく最後まで見終わった。

懐かしい顔ぶれに、それに各人がいい味を出していた。

しかし、エンディングがいただけない。
イプセンまで出して女性解放をうたいながら、最後、安易なまとめ方。
人様の芝居に文句を付ける気はないが、テーマを深化させた中盤までの物語を否定する結果に「納得できねぇよ」と。

ま、たかが芝居、知人の演技が観られりゃ、俺は、それで十分、満足だったが。

芝居を跳ねた後、観劇に来ていた知人らに役者陣を交えて酒を飲むが、皆、元気そうで何よりだ。
俺の体を気遣いながらも、昔同様、ブラック・ジョークが飛び交う。
皆、良いヤツばかりだ。

過去と未来が交錯しながら流れていく時間。
ここ数日続くプレッシャーを忘れるほどに。

なんだか俺も、芝居に戻りたくなってしまったよ。
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2005年07月22日

カノン


HOTSKYという実験的演劇集団の芝居を観に行って来た。

西荻の住宅街にあるカフェ「カノン」を、そのまま舞台にしつらえて。
それこそ、日常の断片を切り抜き、シュールに仕上げた作品。

静かに時が流れてゆく夏の夜の夢。
現実と幻想の狭間で、カフェ・ノワールの香りが漂う。

過度な演出もなく、ニューエイジ系のBGMに、いつしか客も、日常と非日常の境目に身を置き、空間に同化していく。
あたかも客自身が演者同様に、物語を接ぐかのように。

今宵、それぞれが、どのような物語を接ぐのだろうか。

“グッバイ”とカノンにサヨナラを告げ、外に出ると闇は深さを増していた。

一陣の風が頬をなでる。
汚濁の中を経巡り、愚かな世事に心を騒がす日々。
闇夜を見上げ、風の流れを追う。

今宵、俺は、どのような夢を見るのだろうか。
そして、俺は、“明日”という風めくりに、どのような物語を刻んでいるのだろうか。

ハッペル・ベルの音色が、俺を眠りへと誘う。
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2005年07月21日

サマー・ウィンド

 なんて、夏らしいタイトルなんだ。
もっとも夏が似合わない俺が、こんなタイトルをつけるだなんて。

ま、理由があるのさ。

夏風邪でダウンしていたのさ。

市販の風邪薬もなく、かといって町医者に行って、また、変な病気で入院させられたら、ことがことだけに「やばいっすよイドウさん!」「もう終わりっすね」の世界にならないとも限らないので、静かに潜伏していたのである。
ベッドに。

とはいつつ、延ばしに延ばしてきた〆切も、すでにギリギリ。
で、書いたよ。書きまくったよ。書きゃいいんだろ!

しかし、途中、コメント取りや確認で、足を使わずに電話で要件を済ます俺様。
「こんな姿勢でいいのだろうか?」。
これでは「デスク・ライター」ではないかと自問するも、自省せず「仕方なかんべよ」と。

あ、そうだ、連絡をよこすことになっていた、とある地方自治体風冷や奴は、バックレやがったな。
ま、いいや、書き終わっちまったから。
2度とお前の所は、ヨイショ記事書かんからな。覚えとけ。

と書き終わったからいいものの、ホンとしんどかった。
頭の中が、ボヤヤ〜ンで、時々、エポケーの状態。

でもんで、意識と神経を覚醒するために、虫歯に針金差し込んで、痛みをこらえつつ書きまくった。見よ! 歯茎からの血と、クーラーで引っ込んだ汗の結晶を!

涙ぐましい努力の結果、予定枚数をはるかに超え、「果たして載るのかしらん」と疑問さえ浮かぶほどの出来映え(質ではなく、分量)。

ま、どう削ろうと、もう、俺の手から放れ、電子鳩回線でツツーと行ってしまったから、どうでもいいんだけれど。

それに、何を書いたか、俺も、もう忘れた。
一々気にしていられるか!

なんせ、次が待ちかまえている。
旅はまだ続くのだ。

そう、サマー・ウィンドに吹かれて。
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2005年07月18日

Spanish Rose

さまよい続ける。深い森の中で。
一向に出口を見いだせないでいる。
うっそうとした木々の間を射す日の光を頼りに足を進めるが・・・。

などと格好つけている場合ではない。

う〜ん、とうなり続けて、一体どのくらい経つのだろうか。

一向にまとまらない。
焦点がぼけて、照準さえ定まらない状態だ。

まさしく、Writer's block だ。

いったん思考を休止して、気分転換を図るため、別のネタを仕入れに出かけたが、もしかしたら、これはこれで、2重3重の縄目へとなるのでは。
との危惧を抱きつつ、戻ってきた。

そして、再び、うなる俺だった。
う〜ん。

何かが、俺の思考の整理を妨げている。
それがなんなのか。
とそんなことをツラツラと、ここに書きしたためてもらちがあかないが。

う〜ん。

もう、12時か・・・。
寝るべきか、それとも、このままうなり続けるか、どちらも問題だ。

ちなみに、タイトルの「Spanish Rose」には、何の意味もない。
ただ、BGMにヴァン・モリソンの同名の曲をかけているだけさ。

とりあえず、眠りつく妖精たちには、グッド・ナイトの一言を。

そして?

産みの苦しみを味わっている俺には、「ま、どうにかなるだろう」との励ましの言葉を、贈っておこう。
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2005年03月06日

「レクイエム」


俺は、目を閉じる。
過ぎた歳月は、彼に何を残したのだろうか。
彼の時間の中に、俺は、何を刻んだのだろうか。

風に伝えよう、今でも、彼のことを愛していると。

■美しく朽ちていくこの世界に■

3月6日。マロース。
ヘッドライトに浮かぶセントメアリー教会。
時を打ち鳴らす鐘の音も、いまや押し黙ったまま。
静かに夜が落ちていく。
過去という織物に、深く織り込まれたいくつもの時を引き寄せて。

夜明け前の、もっとも闇が深いブルー・タイム。
33番街のブルース・アベニューの一角に車を止めて、タバコに火を点す。
午前4時30分。
ローソクに火を点すように。

詩と散文の夜に終わりを告げたとき、蒼ざめた馬を見た。
「暗きうちを歩みて……」
天に願いが通じるように、アヴェ・マリア。
過ぎる風が、枝を震わせていた。
祈り。
葬送の歌を奏でるように。

3番目の月に5つの太陽が重なる日の夜明け近く。
彼は、逝った。

■セピア色したフォトグラフ■

火影にうつる1枚のフォトグラフ。
それまでの人生がつくりあげてきた哀しげな眼を、憂愁に満ちたを表情を、残して。

どこにでもある話だ。
歩いていれば?
そう、誰にでも。

ただ、違うのは、「問い」を発しても、答えが得られなかった、ということだけだ。
心に幾重にも重なった感情を、吐き出すことがなかった、ということだけだ。
彼の長い影を、踏むことすらなかった、というだけだ。

彼女から連絡があったのは、午前零時。
57番街のストリートを北上していた頃。

未だ、顔すら知らぬ妹からのコール。
涙で回線が途切れる彼女の声。
「せめて……連絡だけでも、と……」
風のうつろなうなりに消えるように。

沈黙。

奈落に続く落とし戸が開く。
意識の底に沈めていた断片。
「……いつ……」
記憶が、インクのしみのように広がる。

心の闇に浮かぶ沈黙の叫び。
心のプラグを引き抜き、耳を閉ざしたかった。

胡桃色にともされた蜀台。
炎が揺らめいたとき、俺はどこにいたのだろうか。
永の歳月に侵食された灯火の残り火さえ、俺は知らずにいた。

明滅するテールランプは、灰色の霧の中で踊り戯れている。

■ブレルを愛し、芝居に興じ■

「僕だけがひとりあとに、彼だけが先に」
ジャック・ブレルの歌声。

シャンソン・フランセーズを愛し、芝居を愛した男。
「愛」を歌い、「愛」を演じ、最初の「愛」を失った男。
そして、苦悩の人生。

いわけなき頃の記憶。
彼が、新たな「愛」を築き上げたとき、俺は独り、影に身を寄せていた。
吹きすさぶ風に突き刺す雨を避けるように、長い影に身を隠し、幼心にこの世の無常を知った。

彼の背を追い始めようと思ったのは、夢と現実の乖離を埋めるため。
座標軸に交錯する「過去」と「未来」の双曲線。
孤独と喪失に彩られた無意識の領域に、記憶のピースをはめ込むため。

彼は、笑顔で俺を迎える。
数え切れないくらいの季節。
失った時を取り戻すかのように……。
「1月の哀しみを、笑顔の12月」にするために。

■過ぎた時の欠片■

ミサを告げる鐘の音。

彼に別れを告げるため、教会堂の会衆席に身を落とす。

ほの暗い円天井。
灯されたろうそくのシルエットがゆらめいていた。

肩を過ぎる祈祷の唱歌。

遠い地で営まれている、別れ。

彼が築いた家族のために。
『これは汝らの為に興ふる我が體なり。我が記念として之を行へ』
いまだ、会うことも無い、妹に、弟のために。
『この酒杯は、汝らの為に流す我が血によりて立つる新しき契約なり』
そして、彼のために、祈る。
「慰めが、ともにあるように」
唇を動かさずにささやいた。

彼のたどってきた道のりが、どのようなものだったかなど、問いもしなかった。
ただ、自問する。
これからも、俺は、歩きつづけるだろうか?

うんざりするくらいに詰め込んだ哀しみを背負いながらも。
時に、日常という織物が引き裂かれたとしても。
それでも、歩きつづけていくだろうか?

会堂を抜けた木立の先。
梢に浮かぶ春風の匂い。

風よ、伝えてくれ。

煙る香りは、優雅に秒刻の狭間に消えていく。

今でも、愛している、と。

posted by Jhon Done at 23:38| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月27日

「リチャードも『愛』だろうなぁ」


さぁ、いよいよわが世の春だ。
辛く長かった冬を尻目に、わがイドウ家の太陽のもと、今や正に春らんまん。
一面の黒い雲も大海の底深く閉じ込められて、今はあとかたもない。
勝利の花輪は頭上に輝き、重苦しい進軍の足なみは軽やかな踊りにとって替わった。
(『リチャード三世』第一場より、一部抜粋、脚色)

■ヴァン・モリソン『スウィート・シング』にのせて■

俺のシュガー・ベイビーは、敬虔なクリスチャンである。
彼女のためだったら、眠くても、車の運転ぐらい、どうってこともない。
すなわち、「愛」だよ、「愛」。

「敬虔」というと本人は、謙遜するだろうが、俺からみると、すばらしい人なのだ。
いまさら、「愛」だ「恋」だなんて言うほどのヤボではない、のろけるつもりもない。
長いつきあいだ。
ただ、彼女は、人格的にも人間的にも「できている」人なのだ。
ある意味、この人がいなかったら、俺は、世間のヘリからすべり落ちていただろう。

彼女は、宗教にはまっているというわけではない。
日曜日には、礼拝を守るが、だからといって、何が何でも教会に行かなければならない、という考えの持ち主でもない。
「いつもイエス様は、心の中にいるわ」と、'マザー・テレサ'のような人なのだ。

小さな動物に、自然界で厳しい生を営む植物に心を配り、愛する、‘ブラザー・サン・シスター・ムーン’のような人でもある。
(我が家の愛猫が、狩りの本能に目覚め、ねずみをとってきても、ねずみのために墓をつくるような人なのだ)。

話はそれるが、この愛猫も、できた猫なのだ。
朝になると、俺が寝ているベッドの上を駆けずり回り、俺を起こしてくれる。
ある意味、この猫がいなければ、俺は、遅刻の毎日だろう。


■病める時も、健やかなる時も■

俺は、昨年の春から夏にかけて、病を患った。
病後の回復もおもわしくなかった。
何も病のときだけではないが、この間、ことさらに彼女に支えられた。
彼女の献身に、祈りに。

彼女は、何も求めなかった。
ただ、ひとつのことだけを除いて。
「元気になられたら、一度で良いですから、教会に」と。

彼女との約束を果たしたとき、彼女に「毎週は無理だが、ひと月にいっぺん程度なら、いっしょに教会にいこう」と、俺は約束してしまったのだ。
そのとき、笑顔をみせながら「あれから牧師様が、『表情が明るくなったね』とおっしゃってくださいまして。私、本当にうれしゅうございます。なにか、私たちを覆っていた『黒い雲』が取り除かれたような思いですわ」と、彼女が「リチャード3世」の冒頭句を持ち出したのは驚いた。
俺としては、彼女は、‘ノーマン・ロックウェル'のような人だと思っていたのだが。

そして、その約束の日が、今日だった。

朝、曜日の感覚の無い愛猫によって、案の定、起こされた。
目覚ましの設定を「停止」しておくのを忘れた。クソ猫め。

眠り足りなく、シュガー・ベイビーに「申し訳ないが、どうも身体が……(なに、ねむいだけなのだが)」と。
彼女は、一瞬、悲しげな顔をするが、「身体を休めるときには、休むことが大切ですわ」と、約束を果たさぬ俺を責めるでもなく、一人、教会に行くという。

そこで問題があった。

礼拝の時間が迫っていたということもあり、車で行くという彼女。
それは良いのだが、ここのところ車のエンジンの調子が悪い。
低速で走っていると、エンストを起こしやすい。
運転技術がカマ堀り2回の俺に比べて、彼女はおぼつかない。
近く、整備屋に持っていく予定でもあり、彼女一人に運転させえるのは心配だった。

そこで俺は、「車はやめたほうが良い。タクシーでいいから、それでいきなさい」と告げると、「タクシーだなんて、もったいのうございます。歩いていきます」と彼女。

彼女との約束を裏切った手前もあるが、そこは、シュガー・ベイビーでもある。
俺は、ボウボウ髪にジャージの風体もかえりみず、ボーボージャケットを羽織ると、車庫から愛車を出した。
そう、彼女のために、教会までの道のりを車で送るために。
エンストと闘いながら、車を駆る、日曜、午前10時の俺、だった。

教会の前で、彼女を降ろすと、「午後には起きて仕事をしているから、帰りに難儀したら連絡するように、車で迎えに来るから」と告げて、颯爽と帰った。
車中、「ん? 教会まで来たのだったら、いっしょに礼拝に出席すればよかったのかな?」と、一瞬、思った。
主よ、許したまえ。

■さぁ、いよいよ、原稿書きの季節がやってきた■

帰路、ホカ弁屋に寄って帰る。
一人で食うホカ弁は、最高だ。
ドクターペッパーも買った。
外に出たおかげで、目も覚めた。
これで、仕事への準備が整ったというものだ。

さぁ、引き延ばしにしてきた、原稿に着手するときが、ついに来た。
辛く長かった「原稿かかなくちゃ、あかんよな」の呪縛から解き放たれるのだ。

だが、1時間が過ぎ、2時間が過ぎていく。
時が、どんどん過ぎていく。

書けない。
書けない理由を上げることもできないくらいの、書けない、のである。
「書く気力」バロメータは、MINのまま。
それで、弁当を食った。
すると、眠気が襲ってきた。
ベッドが俺を呼んでいた。

愛猫も眠る春、2月。

いったい、何時間、眠りについていたのだろうか。
部屋の中に灯りが点っていた。
目の前には、シュガー・ベイビー。
「食事がまだだと思ったので、惣菜を買ってきました」と。
……愛があるならば、無下にはできない。

くちくなりすぎた腹をかかえ、俺は、パソコンに向かい、書いている。
そう、この駄文を。
ちっこい字で表示される、この長い、いつ終わるとも知れぬ、この稿を。

肝心の原稿は、まだ、書き始めてもいない。

人生とは、人間の思わく通りに事が進まぬことでもある。
グロースター公リチャードにも、思わぬ誤算があったように。

そして……「愛」、それは、時として、結末をも変える。
posted by Jhon Done at 21:03| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月26日

「天使の歌声、午前3時のナイチンゲール」


毎年、この時期になると、オラの住む村に旅回りの一座がやってくる。

‘旅芝居’といって、バカにしちゃいけねぇ。

女座長が率いる一座だが、毎年、趣向を凝らして、オラたちを喜ばしてくれるだ。

今年は、「かけおち」(つかこうへい氏作)、「紙風船」(岸田國士氏作)、「修善寺物語」(岡本綺堂氏作)の3部作と、芝居通をもうならせる演目で、村人こぞりて、芝居小屋に足を運んだだよ。

作品ちゅうと、都会さではやっているつか作に、岸田先生の新劇、西欧近代劇へのアンチテーゼ、ポスト歌舞伎イズム、岡本作の史劇とくりゃ、この3作で日本の近代演劇の歴史が分かるってなもんだ。

それにな、都会で言う「ア・レンジ」つうのか、それぞれの作品に、黙劇有り、伎楽有り、そうそう、舞踏にオペレッタと様々な演出が施されておってな、春まだ遠い辺境の地、ネリウマに、一大ページェントが繰り広げられたってちゅうもんや。

ありがたや、ありがたや。長生きはするもんだで。

ま、おらは、つか先生の作品さぁ一番に楽しみにしておったが、なんだで、都会でスターだっちゅう役者が、‘康夫’を演じていたんだが、これがまた若いのに、なかなかやりおる。
‘セツ子’とのセリフの掛け合いが絶妙で、おらは腹がよじれんばかりに笑ったぞなもし。
セツ子役の女優はんも、ファラ・フォーセットを彷彿させるほどの美形の女形で、おらは見とれることしばしばや。
それにな、トリッキーな役所の男はんも出なはってな、これがまっことメンコクて、おなご衆からは嬌声をあがっておったわな。
いずれにしてもやな、つか作の常軌と狂気、条理と不条理の世界観を描いていておもろかったぞなもしり。

一変して、岸田センセの作品は、静劇やったな。夫婦の機微を描きながら、底流に大正デモクラシーを色濃く反映させ、近代日本のあり方を問うていた。

わしらもようけぇ、考えさせられたわ。
さっそく家に帰ったら、かぁちゃんに「シュガー・ベイビー」と呼ぶとするわな。

でもんだで、演者はんの演技は好演の極みや。
セリフの間や微妙な仕草に、男と女の心理の綾を浮かび上がらし、清新さを浮き彫りにしていたぞ。
難しい役所だけに、たいそう苦労なさったろうに。
にもかかわらず、あげん演るなんて、さっすが「役者」つうもんや。
それに、役者冥利の「役」やな。

ほんま、おらが、市井の片隅でひっそりと暮らす病み上がりの駄文家じゃなければ、やってみたかったぞなもし。

そっこと、これが今回の演じ物中の出し物、ロマネスク風「修禅寺物語」。
楽団を仕込み、バーレスクにオペレッタときて、ついでに「オペラ座の怪人」風ペースト仕上げ。

幕開きに、どこぞで聞こえる「鈴の音」の声。
かぼそく、それでいて、哀しげにも軽やかにも聞こえる声の音をたどると、天使の歌声、午前3時のナイチンゲール-――
女座長さんのコロラチュラソプラノ。
小屋中が、シーンとなりはって、あんときは、みな、座長はんの歌声に聞き惚れていたなや。
だけんども、手に持っていた楽器はなんやったんやろ? 一〜二度だけ鳴らしていたが……。

続き、蛇皮線(編集部注=三味線とは違うようだが、詳しいことは知らん蛇)奏者の弾き語り(でいいのか?)にあわせ物語が進行し、途中、なんやかんやあって、役者はんもぎょうさん出おって、踊りもあったんや。

と、まぁ、こういっちゃなんだが、お面づくりのおやっさんが、クライアントから頼まれた仕事の出来が気にくわなくて〆切を延ばしていたんだけんども(つか、分かるよ。原稿が書けない苦しみと同じだよな)。
その間、クライアントは、娘っ子(妹だったっけかな)の一人と恋仲になっちまったと、で、お面も手に入れたと(ま、ここら辺は複雑なので、省略だぎゃな。話の重要どころでもあるんだが)。

一方、姉貴が玉の輿に乗った妹が気にくわなくて、なんやかんやと因縁を(付けていたかどうか、雅言葉でよく分からなかったが、なんかそんな感じだろう)。

でだ、橋の上で、クライアント(あえてAと称する。本当は、源頼家)と妹が逢い引きしていたら、ライバル会社のクライアントBがAを殺しちまったところ、悲嘆にくれた妹が、Aが手にしていたお面を家さにもって帰って、泣き濡れていたら(ん? この時点で、妹も殺されたんだっけかな? ま、いいや)、おやっさんがその面を取って、完全原稿にして、〆切に間に合わせて、無事新聞が出来ました、めでたし、めでたし、ってな悲喜劇な話なんだよ!

とにかく、そこらへんで、踊りもあって、感動的な場面が展開されていたというわけだ。

ちゅうことで、後半、筆が乱れおったが、役者連の見事な演じっぷりに効果を生かした舞台は、感嘆の一言だべさ。

ほんま、ええもん見させてもらったわい。

来年も、楽しみじゃ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
俺はこの一座に借りがあり(金銭じゃない)、さらに言えば、負い目がある。
一座の団員さんに、無用な用を作らせてしまったので。
が、もしてして……と思うのだが、もらったのは俺?
ということは口が裂けてもいえないので、心にしまっておこう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ということで、まだ、まだ、続くのであった。

公演を見終わると、急ぎ、家に戻った。

この日、家内方面の親戚縁者を招き、ささやかな宴を料理屋で催した。

療養中、なんやかんやと心配をかけたことから、せめてものお返しにと。
快気祝いをもらった手前、何かしないとまずいだろう、と市井の人、俺は、そう考えたのだ。

ま、総勢、6人程度の小さな食事会だ。
どうせ、たかがしれているだろう、と思ったら、あにはからずんば虎児を得ず。

飲むや食うやの大散在。
とにかく、酒を飲みまくる。

主催は俺でも、ある意味、主賓は俺でもある。
主賓の俺が、病後、「禁酒の誓い」をたてているというのに。

「おかげさまで」「ご心配をおかけしました」と親戚チックな会話を交わしながら、ヘラヘラと酒をつぐ俺。
もう、世事にどっぷりつかって、ダスゲマイネだよ、ほんと。

宴が終わった後、どっと疲れが出た。
家に帰ると、「お疲れさまでした。みんな喜んでいたわ」
とシュガー・ベイビー。
俺も、一言。
「うむ、それはよかった」
と。

家長は、大変だ。
と、急に、世の中の人と同じような気分になった。

俺も、堕落したな。

窓の外を見ると−−
月は青し、春、まだ遠く、胡蝶蘭(字余り)
posted by Jhon Done at 23:00| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月23日

「箴言の書」


態度が横柄で、生意気で、頑固を通り越して偏屈で、都合が悪くなると、軽く咳なんぞして病み上がりを強調するこの俺をやとってくださる会社まで、地下を走る路面電車で通っているが、駅までは、自転車を使っている。

本来ならば、歩くことが一番なのだが、そんなかったるいことはしない。
かといって車で通うほど、堕落もしていない。
そこで、間を取って、自転車を使っているのだが、なにせ山岳地帯に住む俺にとって、駅までにいくつか越えなければならない峠(坂)がある。

初めて出社したその朝は、坂を上る以前に、数キロ(実測10メートル)にもわたる峠越えをあきらめ、自転車から降り押して上った。

賢明な措置だった。

峠に到達すると、茶屋(そんなもんがあるわけがない)で一服し、おもむろに自転車をこぎ始める。が、それもものの30秒。
ももが筋肉痛を起こし、ひざがあがらず、ペダルがこげない。
それこそ、時速数キロの世界。
朝の通勤を急ぐ村人たちに、なぜか自転車乗りの俺が、ぬかされていくという始末だった。

それが、今では、峠の半分まで、自転車で上りきることができるようになった。
来月にはきっと、峠を一気に上りきることができるだろう。
「人間力」とでも言うのだろうか、人間とは偉大だ(意味が違うが、別にかまわない)。

しかし、今日の主題は、このような低俗な話ではない。
なにせ俺は、プログにかこつけて、文学をやっているのだ。
だから、常に高尚でなければならない。

今朝、駅につくと、ケツポケ(都会の者たちが言うところのケツのポケットだ)にマネークリップ(要するに札入れだ)が入っていないことに気づいた。
ジャラ銭を数えると、340円に5円玉1枚、1円玉が2枚。
ま、少なくとも、この日本で使える流通貨幣であることは間違いないのだが、あまりにも心もとない。というよりも心もとなすぎる。

が、なんとかなるだろうと、そのまま、資本主義社会を支える企業戦士もどきへとリゲインする俺だった。
道すがら、「ええと、午前中に、ヤクルトの野菜パックを1個買って、昼に缶コーヒーを買って、帰りの駐輪場代を払って……」と主婦チックな俺だった。

が、昼飯代がない、ことに気がついた。
「これでは、パンの1個も買えない」と。

話が飛ぶが、記事中「が」を連発すると、昔、「がぁがぁ、うるせぇな」と編集長に怒られたものだった。

で、どこまで話が進んだかと読み返すと――。

昼飯代がないことに気づいた俺だったが、昼飯なんぞ、食わなくたって、これまでやってきた身(それで病ったのかもしれないが)。
そんなことでは、頭を悩ませない。
今はむしろ、食いたくも無いが身体のためと、無理に食っている。

それよりも、金がないため珈琲が飲めないことに、愕然とした。
「缶コーヒー1本かよ」
なにか急に、この世界が憂鬱な存在に感じられ、生きていくのが嫌になった。

とここまで書いてきて、これ以上にも話が長くなりそうなので、ここでペンを置く。

なんせ疲れている上に、本来ならば、書かなければならない原稿があるのだ。
ただでさえ、昼間の仕事で疲れているのに、たかが、プログごときで体力を消耗しては。

それも、いつ締め切りなんだかよく分からない原稿を別口でかかえ、「できれば金曜日であって欲しいな。それならば、明日、早起きをして、さらに、木曜の夜に手がければ、脱稿できるだろうなぁ」などと独り勝手に逆算している俺なのだから。

そういえば、今日のクライアントからの電話では、締め切りの件には触れていなかったな。
「もしかして、もう少し、延ばせるのかな」
などと甘い考えが浮かびもするが、それはこの道で生きてきた俺、心で思ったとしても、決して願いはしないし、同じく、可能な限り、こちらから締め切りの話題は振らないことにしている。

とにかく、このプログにかけた労力を少なくとも、少しでもそちらに向けていれば、明日の晩、多少なりとも楽なことには違いなかっただろう。

しかし、明日のことは誰が分かろう。

つまり、今日、ここで言いたかったことは、「明日は、明日の風が吹く」である。

うむ、まっこと箴言である。
posted by Jhon Done at 22:04| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月21日

「書き始める理由」


ボブ・グリーンの著書に『書きつづける理由』という書物があるが、あちらは名だたるコラムニスト。
他方、こちらは、市井の片隅で、ひっそりと暮らす病み上がりの駄文書き屋。
比べることすら、おこがましいが、なに、誰でも、物を書けば、「物書き」。
おかげで、俺の商売は、後塵に食われっぱなしだが。

といったことをつらつらと書き綴るために、稿を起こしたのではない。
サイトを再開し、ほんのツマミ程度の供え物に、「プログ」なるものをと。
ところが、書いては「板」ごと消し、また書いては「板」ごと消すといったことの繰り返しで、今回で3版目(といった呼び名がふさわしいのかどうか)。

つまり、方向、方針が定まらぬまま、書き連ねたが、記事の行間から‘自己顕示欲’が垣間見られ、嫌になって「板」ごと消したまで。
心の奥底で自己を誇ろうとする自身がいやらしくみえ、嫌になったのが本当のところ。

いっそのこと、ありのままに書き連ねてみようと、「書き始める理由」などともっともらしいタイトルをつけて、再開を決め込んだ。
(といっても、ありのままに書くといろいろと問題があるので、ボカシはするが。なんせ、以前、ありのままに書きすぎていたら、面が割れ、いらぬ迷惑をこうむったので)。

といっても、未だ、方向なんぞ、定めてはいないが。

ただ、以前のサイトのように、ブルースを基調にした駄文を中心にしたためたいとの思いがあまりないのも事実。
(なんせ、当時、サナトリウム風日記を書いていたら、本当にサナトリウムに入るとは……)。

ま、病を患ったせいなのか、それとも、知らずのうちに心をいれかえたのか、ノアールなものよりも、健康的で人間礼賛といったようなものへの興味が強い(が、そんなもん、書きはしないだろう)。

俺は、変わったのだ。そう、俺も変わったものだ。
(入院した当時、ベッドの上で、「治してくれたら教会に行きます」「真人間になります」「人には優しくなります」と祈り、数々の悪行を悔い改めもしたが……)。

だから……というわけではないが、日々の戯事をつづっていこうと思った。
日々、感じたことを素直に(ったって、俺のことだから、ストレートに書くわけが無いが)。
感銘した事柄に(なもん、めったに無い)。
自然の営みに、そのものの美しさを(なもんも、感じはしない)。

そう、俺は、生きていることのすばらしさを!

そうだ、ここまで書き連ねて、初めて「書き始める理由」がわかった。

生かされていることのすばらしさ、だ。

この感動を、ただの一語であらわすならば……。

「ただ、そだれけのことさ。なにも、ありゃしねぇよ」。

おそらく、また、「板」ごと消すはめになるだろうが、ボブ・グリーンの言葉を借りるならば、「書きつづける理由」がある限り、俺は書いていくだろう。

おお、格好いい(自己顕示欲を示す直接的な表現には、俺は、なんら抵抗を感じないのであった)。

ということで、プログシリーズ第3版がスタートしたのであった。
posted by Jhon Done at 21:21| それだけのことさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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